霊場と巡礼

平成12年7月10日

昨夏、スリランカへ旅したときの往路、タイ航空機で隣に同年配の欧米人が少し遅れて座って来た。話しかけてみるとカソリックの神父さんであった。大阪在住でポルトガル人のこの方は、ファチマ(Fatima)の奇蹟のまさにその教会で神父になったことを親切に語って下さった。

「ファチマの奇蹟」とは、今から八十五年前にポルトガルのファチマにおいて天使と聖母の出現があり、聖なるお告げがあったというものである。その地は、今では聖地となって教会も建てられている。

また神父さんは、来秋に信者と共に世界のキリスト教の聖地を二週間かけて巡礼すると云う。キリスト教でも多くの巡礼者が聖地を巡錫されているのだという。

小豆島霊場においても数々の札所があり、聖地であったり奇蹟の地であったりする。先般、町の文化財委員として札所の絵馬の調査に同行したとき、多くの奇蹟が記された霊験記の掛け物を目にして奇蹟の地、小豆島を再認識した。

また先日、ある地方の霊場をコーディネートされている方にお話を聞いた。「今、日本人は心の拠り所を求めている。霊場巡拝は、まさに自然と仏神の恩恵を直接受けることが出来て、心の拠り所となりえるし、仏教の唱える衆生救済の聖行ともなる」と。

今、十七歳の少年がキレている。岡山、邑久町の高校生バット殴打事件がそれである。また、引き籠もりの青少年が増えて新潟の少女拉致監禁事件や福岡のバス乗っ取り殺人事件などを引き起こしている。

何故そのようなことが起きるのであろうか?

その答えを探るキーワードは、「心」と「身体」である。

「心」と「身体」は切っても切れないものとユング系心理学者の河合隼雄さんは云う。氏は東洋思想を西洋医学に取り入れて「人にはこころと身体のエネルギーありその調和が大切である」と力説される。

「心」の問題には、「甘えの構造」と「アイデンティティの喪失」ということが云われる。「子が親に甘え、親が子を溺愛し甘えている」というのだ。そして、自分というものを見失っているという。

それは、学校や家庭において過度の規則や期待に打ち負けて自分を見失い流されているのだ。

「身体」の問題は、乱れた食生活にあると云われる。深夜徘徊やジャンクフード、ジャンクドリンクの飲食。その中に含まれる添加物には環境ホルモンが混入されており、人を凶暴にさせたり、アトピーなどのアレルギー症を起こす原因となっている。

そんな病んだ青少年を連れて札所を規律正しく先達さんについて巡拝させる。

身体を動かし心を清め、本来の食事を取り、早く寝て早く起きる。そうすれば健全な身体が甦り、自立の心が芽生えると共に団体行動で相手を思いやる事に気づき、歩いている最中に思い悩み思考する。そして自分を再発見することができるだろう。

どうか道に迷った青少年を遍路行に誘って助けてあげていただきたい。

杖の物語

平成12年12月20日

杖に縋るとも人に縋るな

と云う諺がありますが、まさに現代を象徴するかのような言葉となっております。

個人の時代と呼ばれて久しくなります。そして個人のアイデンティティの構築が必要と叫ばれ、社会の構成や成り立ちが集団性から個人化へ変遷しつつある昨今、人以外の杖となるべくモノの恩恵に我々は浸りきっているのです。

電気炊飯器や電子レンジ。携帯電話やパソコン、テレビやラジオ。自動洗濯機や自動車等々枚挙に暇がありません。我々現代人はそれら多くのモノの杖に厄介になって生活してるのです。突然、今それらのすべてが無くなってしまったらどうなることでしょう。人は一度味わった「ラクさ」は忘れないもので苦痛に感じ途方に暮れることでしょう。

まさに遍路杖もそうなのです。一度使って助けを受けたのならば、二度と手放せません。

遍路杖は金剛杖とも云います。

そこには御大師様の御宝号「南無大師遍照金剛」と「同行二人」が刻まれています。つまり御大師様に帰依し、御大師様と共に二人で歩む遍路行の自覚を促す意味なのです。

四国遍路のはじまりについて「衛門三郎」の物語がよく知られています。天長年間の頃ですから御大師様の活躍された丁度その頃、伊予の国に河野衛門三郎という長者居り、悪鬼長者とも云われ、人々に嫌われていたと云います。或る日、そんな衛門三郎の屋敷に僧侶が托鉢に訪れたところひどい仕打ちを受けました。その僧侶こそ弘法大師空海上人であったのです。御大師様は、長者の悪評を聞き改心させるべく門前で托鉢をされているとそれに腹をたてた長者が竹ぼうきで御大師様を打ち付けようとしたのです。御大師様は咄嗟に鉢でほうきを防ぎましたが八つに割れて四方に飛び散ったそうです。翌日から長者の子供達が不慮の死を遂げて行きます。八人すべての子が死んでしまい、それを不憫に思った御大師様は子供達たちの菩提を弔い供養回向を行った後、次なる修行へとその地を後にされました。

衛門三郎は、子供を失ってはじめて自分の不善で愚かな今までの行為に気が付き、そして、一言懺悔しようと御大師様の後を追いました。

二十度、四国を回りましたが御大師様に逢えません。そこで二十一度目には逆に回ることにしました。しかし、それまでの旅の疲れからか現在の第十二番霊場、焼山寺の近くで倒れてしまいました。息も途切れがちなその時、御大師様と逢うことが出来、自分の罪を悔いて息を引き取りました。御大師様は哀れに思い、長者を手厚く葬りその塚に長者の使っていた金剛杖を立てて墓とされたのです。

金剛杖は五輪塔と同じく「キャ・カ・ラ・バ・ア」という梵語が刻まれています。それはこの世界の構成要素が地・水・火・風・空の五元素から成り立ち、我々は死してまたその五つに戻っていくとの道理を記しているのです。

今年、或る篤信者が小豆島霊場のすべての札所に「御杖立」を寄進して下さいました。是非、皆様にはこの杖の意義を深く感じてお使い頂きたいと思います。

日本的霊性と現代社会

平成17年6月10日

ひたすら遍路に勤しみ忘我の境を彷徨っていると失念していた自分という存在に突然邂逅したりする。急に人が恋しくなったり恨めしく思えたり。時には怒り、時には哀しくなったりする。そんな移ろいやすい自分と云う存在の「本体」とは如何なるものなのか。

伝統的な表現を用いれば「魂、霊、性根」などと言い表し、哲学的にかしこまれば「精神性」とか「霊性」などと云えようか。

『日本的霊性』とは鈴木大拙師が当時欧米で盛んになっていたキリスト教的「スピリチュアリティ」(霊性)の研究を踏まえて鎌倉期の禅・浄土の定着・隆興が日本的霊性の自覚の萌芽であるとしてまとめた名著である。残念なのは師の平安仏教つまり密教系仏教へ不理解が露呈することになってしまっている点だが。

ところをかえて中国に於ける陰陽五行説では万象は木・火・土・金・水の五要素から成立すると考え「魂魄」という概念を想定する。「魂」は精神性を司り天に昇り、「魄」は実体としての身体を指し地に戻るとする。それに対して密教では「地・水・火・風・空」に「識」を加えた六大が人の構成要素であるとする。つまりこの世界の構成要素である「五大」と「識」という精神性から人は成り立っているとするのだ。

最近「ニート」なる言葉をよく耳にする。英国での造語だが直訳すると「就業、就学をせず職業訓練も受けてない人」となる。日本国内では、「フリーター」四百万人、「ひきこもり」百万人、「ニート」八十五万人、「不登校」十三万人となっている。そして、それらの人数は毎年急激に増えているものと考えられる。

フリーターは、自分探しや自己の夢を追うため定職に就くことなく長短期アルバイトとして労働する者が多いというのだが、その夢も厳しい現実に直面し、夢破れ将来への希望もなく労働意欲が削がれ日々を無為に過ごすようになった青少年をニートと呼び、そのような者たちがいよいよ外へ出ることもままならぬひきこもりとなり、その内の何パーセントは、家庭内暴力へと走り、ついには家庭崩壊へと負の連鎖は続いて行くのである。

そのような青少年が増加することによって日本社会に於ける労働人口の減少に拍車をかけ、労働時間の減少により低所得者層が増加し年金受給への不安を増大させる原因となっている。

これらの問題の抜本的な対策として考えられるのが家庭での慈愛溢れる教育、即ち躾の励行である。それらの要点は三密の身・口・意にまとめられる。

島を清々しい立ち居振る舞いで巡錫し(身)、立派なお勤めをして(口)、他の参拝者に気遣った(意)参詣をされるお遍路さんは、親御さんの素晴らしい躾が備わり、仏教修行者としての三密行を全うされており善き影響を多くの人々に及ぼすのである。

畢竟、自己の「本体」を当て処もなく探し求めることより、まずは正しい生き方、つまり日々の三密行に専心すべきであるのだ。

桜の散る頃

春の随想

桜の散るのは早い。

無常の理の如く、儚い花の命は儚いからこそ尊いのだと毎年思う。

移り行く泡沫の夢。

苟且の世の情。

散りゆく桜に
無常を見て
今を生きる尊さを
思う