はじめに
仏教はその成立当時、インドの宗教的社会的思想の源泉であり常識となっていたヴェーダ・ブラーフマナ・アーラヌヤカ・ウパニシャドという体系に連なるブラフマニズムによって規定せれた身分階級つまり、チャートゥル・ヴァルナ(四姓)に現形されるカースト制度を否定し「四姓平等」を標傍する革命的宗教思想であった。それは究極の真理である「仏智」を根拠として種族・職業による身分差別の否定であり、人はいかなる場合に於いても本来平等であるとする人権宣言であり、人間解放運動であった。
時は移り、仏教は様々に分化展開をなして密教に変革しても尚、その根本精神は不変である。しかし、釈尊の未資たる我々が現実に直面する人権に関わる諸問題は如何なるものか。以下、真言宗に於ける人権の理念とその根拠、さらには布教伝道の実際の展開方法について考察する。
一、経説に見る人権の理念
本宗は「大日経」と「金剛頂経」との両部の大経をもって所依の経典とする。
前者は「如実知自心」と「三句の法門」という教相的側面を、後者は「五相成身観」という事相的側面を経説の特徴とする。そして、両経は曼荼羅によってその体系を簡明に図説される。
曼荼羅は、経説の宇宙観や真理の理論的根拠、並びにインドに於ける社会構造の象徴的表現であった。
畢竟するに人は社会という曼荼羅の構成要素のひとつであり、そのため自ずから存在理由として「権利」を有し、「義務」と「責任」という役割を分担して背負っている。胎蔵生曼荼羅に於いては、その中心<大日如来>であろうが外郭の<諸尊類衆>であろうが、ホロニックな、つまり独立した一個の存在であるものが異なる質を越えて調和し、相互に礼拝し供養し合う役割の時機応化を示し、主客なく、差異即平等であり、本不生であることを説き示す。また経説中に、「人権」なる表現は、観点の相違から直接的記述は見出せないが、その意味するところを包括し、さらには常識的思惟を超越して、より高度な人間認識としての、「凡聖不二」や「三心平等」といった「本不生」の概念にそれは含まれると見てとれる。
二、「大日経」の修道論
「人権」問題が叫ばれる昨今、真言宗の教学を如何に人権啓発の実際にフィードバックすべきであるか。心理的向上方法として、「大日経」にはどの様に修道の方法、修行の過程を説いているのだろうか。
経説を概観してみると、それは「三句」「五転」と「三劫」「六無畏」とに要約できるのである。
「三句」とは、「菩提心を因とし、大悲を根となし、方便を究竟とす」という実践行の根本の観念となる教えである。
「五転」とは、発心・修行・菩提・涅槃・方便究竟というこころの向上門の修 道を説き、この「三句」と「五転」とが真言行者の心の向上展開を表わし「三句」 を詳説したものが「五転」であるとする。
また、「三劫」とは、「三妄執」つまり三種の煩悩であり、一には自己の身体を 実有と感じ自他の区別ありとする妄心、二には法を実有とする妄心、三には一切 法に能所ありとする無明の妄心をいう。
「六無畏」とは、善無畏・身無畏・無我無畏・法無畏・法無我無畏・一切法平 等無畏という心に起こる畏れを除き信心を決定して安心を得る修行の六過程を示 す。この「三劫」と「六無畏」とは真言行者の心の向上展開する階位を示し、「三 劫」を詳説すると「六無畏」になるとする。
三、経説に依る人権啓発の実際
「六無畏」は菩薩の修行の階位を示す「十地」の前の段階と見なされるが、そ れは「十地」が出家者たる菩薩行者の修行の階位を示すのに対して、「六無畏」の 初位である善無畏は、大師の説く十住心の第三住心までの如く世間に於いて生計を営む世俗者の心の修 行徳目を挙げる。今、問題であり考察すべき事項は如何に世間の人々をして人権啓発たる心 の開発を啓蒙し、教え導くかであるのかを鑑みると、この善無畏を現代的に咀嚼し 実際に執り行う必要があることが分かる。
イ、善無畏の意味
自己の身体を実有と感じ自他の区別ありとする誤った考えを持つ凡夫は、その 主客の差異の認識から差別の因を生じ、ついには実社会に於いて「人権」の侵害 を及ぼす偏見・差別の不徳なる行為を引き起こす。この無明なる凡夫の心を啓発 するのが善無畏の意味するところである。
善無畏は、凡夫つまり自己の存在理由の正しい認識に乏しく、現象世界の事象に捕らわれ呪縛された者の心に存在理由の真理を求める心を起こさしめ、止悪行善の道を進ませ、十善戒を遵守させて、悪趣に堕る畏れを取り除くことを目的とする。
さらに真言行者であるならば三昧耶戒を受け三密修行に励み菩提心を確立するのがこの善無畏の段階である。
ロ、善無畏の実際
この善無畏の行いは現在「懺悔」「三帰戒」「三竟戒」「十善戒」「発菩提心戒」「三昧耶戒」「光明真言念誦」「御宝号念誦」に集約され、さらには、「四恩」の報恩行、「四攝事」などが説かれる。現世の煩悩に惑わされる人々に、いかに自己の存在認識の真理を求める道を歩ませるか。その意思決定の源泉は「戒」にある。
ハ、戒の意味
「戒」とは「~しよう」とする意思であり、「~します」という誓いであり、「~できますように」という願いであると体系付けて言うことができる。つまり「誓願」なのである。さらに換言すれば、「戒」とは我心をよく制御・抑制して「戒」を持すことが心の善行為への発動根拠となり、「戒」の反復誓願が戒体を起こし、その羯磨によって菩提心を生起せしめ、「戒」の展開の究極の姿勢を示す本宗独自の「三昧耶戒」へと昇華できるのである。
「三昧耶戒」とは、三心平等の自覚と実践こそが「戒」の本質であり、「人権」問題の根本であるところの、自他の差異の認識から生じる心理的側面からの差別意識解消の、実際の根幹となるものである。
二、「四恩」「四攝事」の実践
「三昧耶戒」に於いて、心理的差別意識の排除がなされても、物理的、視覚的差別意識の排除が必要である。いかに心理面で理論的に諒解されていても、目で見て雰囲気に触れてみると、新たに深層心理に悪影響を及ぼす原因を生じることがある。その物理的・視覚的差別解消を行うのが「四恩」「四攝事」の実践である。
「四恩」は、父母・国家・衆生・三宝の四種の事象から恩恵を受けて生かしていただいているという感謝と報恩の行為である。
「四攝事」とは、布施・愛語・利行・同事という人々と接し誘っていく実際の手立てである。それらを現実的捉え方をするならば、
「布施」とは、貧困・災害・障害などによる経済的物質的枯渇者への救済としての財的援助であり、
「愛語」とは、和やかな顔で親しみをもって慈愛に飢餓する者、身寄りのない老人や病人などへの看護の接し方の有り様であり、
「利行」とは、狭義には個人のために援助努力することであり、広義には社会福祉や医療福祉などの六福祉現業機関や、地球環境保護運動としてのエコロジーなどへの参与であって、
「同事」とは、先の福祉現業機関やエコロジーへの財源的援助に留まらず人的援助としての貢献を意味する。実際に人の看護・介助に携わるとき、被看護・介助者への偏見と差別の意識はその心理的認識が正しくされている者にとってはより自他の差異無しの認識の確立に好影響を及ぼすが、そうでない者にとっては逆効果となって一層の偏見などを増長させる可能性が生起する。それ故、心・物両面での啓発が必要となってくるのである。
さらにまた、本宗として現業機関への参与に留まらず、教義に照らし合わせた三密妙行の施法を行い、宗教的安心・無畏を施す方法の確立が待たれる。
例えば、
○若者に対しては将来への不安の除去
○中・壮年に対しては老いと老後の生活への不安の除去
○老人・終末治療者に対しては死への畏れの除去
などを挙げることがでよう。
近年、老人ケアなどは本宗の実績が顕在化されてきたが、とくに若者への精神的ケアとしてのカウンセリングや終末治療者に対してのホスピスなどのといったものへの宗教的働きかけは、大きく期待されているので早期の実践、体系化が望ましい。
これら「四恩」「四攝事」のひとつひとつの事項は相互に密接な関係を持ち、その展開と連携とにはどれが欠けても完全なものにはならない。正しく偏見を排除し、人権啓発をも越えた社会への宗教的貢献のために本宗教師ひとりひとりの実践行が必要不可欠である。
結 語
以上、推及するに、「善無畏を実践する」ことによって偏見と差異の認識を排除し、差別撤廃の心理的物理的両面への貢献が可能である。本宗教師は、人権問題を解決する内容を持つ曼荼羅共生の理念のもと、まず自ら高い誓いと願いとを持って三密行を実践し、自利利他の菩薩行を実践しなければならない。その意思の源泉は「戒」であり、「戒」の羯磨である。その上に立って民衆を救済せねば虚飾の行いと言えよう。曼荼羅共生は各自の「戒」による意識の高揚と「智慧」による正しき自己認識とからもたらされるのである。